『一発逆転』通信

「あなたの過去は解決されていますか?」
「あなたの現在は充実していますか?」
「あなたの未来に希望がありますか?」
今、少しドキッとした方。
あなたの人生を一発逆転!
今日のかて ヨハネ 4:10-15
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    イエスは答えて言われた。「もしあなたが神の賜物を知り、また、あなたに水を飲ませてくれと言う者がだれであるかを知っていたなら、あなたのほうでその人に求めたことでしょう。そしてその人はあなたに生ける水を与えたことでしょう。」
    彼女は言った。「先生。あなたはくむ物を持っておいでにならず、この井戸は深いのです。その生ける水をどこから手にお入れになるのですか。
    あなたは、私たちの先祖ヤコブよりも偉いのでしょうか。ヤコブは私たちにこの井戸を与え、彼自身も、彼の子たちも家畜も、この井戸から飲んだのです。」
    イエスは答えて言われた。「この水を飲む者はだれでも、また渇きます。
    しかし、わたしが与える水を飲む者はだれでも、決して渇くことがありません。わたしが与える水は、その人のうちで泉となり、永遠のいのちへの水がわき出ます。」
    女はイエスに言った。「先生。私が渇くことがなく、もうここまでくみに来なくてもよいように、その水を私に下さい。」
    新約聖書 ヨハネの福音書 4:10-15

    神がどのような方であるかということを知ることは、とても重要なことです。
    多くの兄弟姉妹が神に何かの問題について祈った後に、「主よ。その問題をあなたはどのように解決してくださるのですか?」と訊ねます。
    さらに自分でその願いを神がどのように叶えてくださるかの方法論まで、細かくシュミレーションまでしてしまいます。
    つまり神はこのような方法で、この願いを叶えてくださるだろうと。
    しかし、そのことは無限の神を、小さな小さな人間の知恵の中に、閉じこめてしまうことになるのです。
    主はどのような方でしょうか?
    主は永遠の命そのものである方です。
    そして、私達の全ての渇きを私達が主に訴える前から、主は私達に何が必要か知っておられ、それを完全に満たそう、いや永遠に満たし続けようとされる方です。
    その方法は人の手を何一つ必要とすらされないのです。
    その綿密な計画は私達の計画よりはるかに高く、私達の理解を超え、想像を超えた、完全なもの。

    《コリント人への手紙 2:9》
    まさしく、聖書に書いてあるとおりです。「目が見たことのないもの、耳が聞いたことのないもの、そして、人の心に思い浮かんだことのないもの。神を愛する者のために、神の備えてくださったものは、みなそうである。」

    つまり、私達がどのように神がなさるかということに口を挟むのは如何にも愚かしいことです。
    もしもそのようにするのであれば、私達は自分の思いを、神の御心に対立させるという恐ろしいこととなり、時にはその結果として自分の思っていたことと結果が違うと、自分の思いで自らを傷つけることさえあるのです。
    主は初めであり終りである方なのです。
    主に全ての始まりを委ねるのであれば、主がその結果をも負われ完成されるのです。
    主は義であり、愛である方だからこそ、一度ご自身が始められたことを完成しないでは居られないのです。
    主は完全な方であるからこそ、私達への主の計画も完全であり、主が善である方であるから、その計画は最善であるのです。
    主がどのような方であるかを知り、全ての思い煩いを主に委ねましょう。
    主ご自身があなたのことを心配してくださっているのです。
    この方こそ、天地万物を治められる主なのです。
    その方があなたにやさしく伸べている御手に、あなた自身を委ねましょう。
    主があなたの揺るぎなき人生を完成してくださるのです。


    愛する主よ。小さな私達の心をあなたに明け渡します。私達の心を広くしてください。無限であり全能であるあなたを知ることができるよう、思い煩いや貧しい想像で狭くなった私達の心を広くしてください。恐れるのではなく全幅の信頼をもって、あなたに全てを委ねさせ、あなたの無限の恵みに安らぐ者としてください。私の生きる全ての時で、主を知ることは、私の最上の喜びなのです。あなたを知り、あなたと共に歩む日々をお与えください。
    主イエスの御名により。アーメン。

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    | 今日のかて | 18:34 | comments(0) | trackbacks(0) | - | ↑PAGE TOP
    今日のかて マタイ6:19-21
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      《マタイ 6:19-21》
      あなたがたは自分のために、虫が食い、さびがつき、また、盗人らが押し入って盗み出すような地上に、宝をたくわえてはならない。
      むしろ自分のため、虫も食わず、さびもつかず、また、盗人らが押し入って盗み出すこともない天に、宝をたくわえなさい。
      あなたの宝のある所には、心もあるからである。

      私達の信仰者としての歩みはどこを見ているかに拠ります。この地上に何を作り、何を積み上げ、心の支えや誇りとしても、それらは儚く消え去るものです。
      どれほど、地上で能力があっても、経験があっても、地位があっても、経済的に豊かであっても、どれほどの素晴らしい物達に囲まれていても、それがどれほど確かに見える、自分の将来を保証してくれるように見えたとしても、それらは御言葉のように「虫が食い、さびがつき、また、盗人らが押し入って盗み出す地上」に積み上げる物は、いとも簡単に儚く消え去る虚しいものに過ぎないのです。
      ならば何をするために生きているのかと、逆に目的を失い、虚しく悲観的になる必要はありません。
      確かに聖書においてこの世と言われている、この社会における価値観では、地上に結果を出す、積み上げる以外に生きる目的が見えないでしょう。何せ、天を知らないのですから。
      天の存在を知ることができるのは、主イエスを信じ救われて新しい命に生まれた者だけです。なぜなら、私達の内に生きる命、聖霊は天から下られた霊であり、だからこそ、私達をこの地上に生きているこの時でさえ天にある者と等しくされるからです。

      《1コリント 15:42-50》
      死人の復活も、また同様である。朽ちるものでまかれ、朽ちないものによみがえり、
      卑しいものでまかれ、栄光あるものによみがえり、弱いものでまかれ、強いものによみがえり、
      肉のからだでまかれ、霊のからだによみがえるのである。肉のからだがあるのだから、霊のからだもあるわけである。
      聖書に「最初の人アダムは生きたものとなった」と書いてあるとおりである。しかし最後のアダムは命を与える霊となった。
      最初にあったのは、霊のものではなく肉のものであって、その後に霊のものが来るのである。
      第一の人は地から出て土に属し、第二の人は天から来る。
      この土に属する人に、土に属している人々は等しく、この天に属する人に、天に属している人々は等しいのである。
      すなわち、わたしたちは、土に属している形をとっているのと同様に、また天に属している形をとるであろう。
      兄弟たちよ。わたしはこの事を言っておく。肉と血とは神の国を継ぐことができないし、朽ちるものは朽ちないものを継ぐことがない。

      地上にある命はやがて朽ち果てますが、この天から降って私達に与えられた、天からの新しい命は永遠に朽ち果てることはありません。
      そしてこの天から来た命は天に属する者の性質を持つために、私達に天を見させ、天を味わい知ることを与えるのです。
      そして、この天こそ永遠という、終わることのない、限りのない、つまり時間というものを超越した場所であり、そこにあるものは全てが永遠の中に変わることなく存在するのです。
      私達はこの天を見ることができるのです。

      《2コリント 4:16-18》
      だから、わたしたちは落胆しない。たといわたしたちの外なる人は滅びても、内なる人は日ごとに新しくされていく。
      なぜなら、このしばらくの軽い患難は働いて、永遠の重い栄光を、あふれるばかりにわたしたちに得させるからである。
      わたしたちは、見えるものにではなく、見えないものに目を注ぐ。見えるものは一時的であり、見えないものは永遠につづくのである。

      私達はこの天を見る時、そこにある永遠の栄光を見ます。私達がどのように生きるとしても、地上に宝を積むよりも、天に積まれる宝の素晴らしさに、地上では味わうことのできない喜びを知るのです。
      主の御心を行い、主の栄光を求めて生きる時、地上に何が起こることよりも、天においていかに栄光に輝く宝が積まれているのかということの方が、はるかに価値ある生き方であるということを、内から溢れ出てとどめられない程の喜びのうちに、確信するのです。
      私達に与えられている命は永遠です。終わることのない永遠の人生を歩む私達にふさわしい、価値ある歩みを求めましょう。
      昨日とは違う、あなたの日々の過ごし方が今日から始まるのです。


      愛する主よ。まだ私達には、あなたが与えてくださった永遠の命の本当の価値がわかりません。それは知性では理解することのできないほど、絶大な価値を持つからです。この命を持つにふさわしい歩みを私達に教えてください。天的喜びの深さを存分に味わい知る者としてください。私達に天に宝を積む喜びを教えて下さい。あなたがそのことによって喜びを得てくださいますように。
      愛する主イエスの御名によって。アーメン。
      | 今日のかて | 17:03 | comments(0) | trackbacks(0) | - | ↑PAGE TOP
      今日のかて ヨハネ 4:39-42
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        さて、その町のサマリヤ人のうち多くの者が、「あの方は、私がしたこと全部を私に言った。」と証言したその女のことばによってイエスを信じた。
        そこで、サマリヤ人たちはイエスのところに来たとき、自分たちのところに滞在してくださるように願った。そこでイエスは二日間そこに滞在された。
        そして、さらに多くの人々が、イエスのことばによって信じた。
        そして彼らはその女に言った。「もう私たちは、あなたが話したことによって信じているのではありません。自分で聞いて、この方がほんとうに世の救い主だと知っているのです。」
        新約聖書 ヨハネの福音書 4:39-42

        一人の女性がイエスキリストに出会いました。
        彼女は命に飢え渇きながらも、自らの問題に、そして罪に捕らえられ、人目を忍び生きてきました。
        自分にはどうにもできないことを抱えたまま、だからこそ、その命が枯れ果て、心の奥底で命を求めていました。
        このサマリアの女に声をかけた主イエスこそ、彼女が求めていた命の泉たる救い主でした。
        彼女はほんの数言しかイエスと会話していませんが、彼女の命の問題、罪の問題、神との交わり(礼拝)の回復。言葉ではなく、知性でもなく、その霊の深くにまで至る全てが満たされ、イエスこそ我が救い主キリストと告白するに至ったのです。
        その告白がサマリアの人々の心を動かしたのです。彼女にとっては人目を忍ぶ、恥ずべき罪深き日常生活を、そこから解放され命を得たからこそ、恥じる事なく告白した、その罪からの解放の知らせこそ、サマリアの人々への真実の告白、最初の福音となったのです。
        そして、その言葉でサマリアの人々は、イエスを信じた。
        しかし、ここからが重要な部分です。
        どれほど強烈にイエスと出会ったという人がいても、その人の信仰の告白はその人のものです。残念ながら、その人の言葉をいくら聞いても、信仰へのきっかけにはなっても、自分の信仰にはなりません。自分が直接主イエスと交わり、直接主イエスから御言葉を聞かなければ、何の意味もなしません。
        それは人からの借り物の信仰であり、借り物では命を受け取ることはできないのです。
        これは信仰者としての歩みのどの段階においても言えることです。
        どれほど素晴らしい信仰者と交わっても、どれほど素晴らしいメッセンジャーのメッセージを聞いても、どれほど多くの素晴らしい信仰書を読んでも、どれほど信仰深い信仰者に祈ってもらっても、それは自分が主と交わらなければ、何の意味もないものなのです。
        なぜなら、主の言葉にこそ命があり、主との交わりにこそ命が流れる、直接的な主との関係のみが私たちを永遠の命に生かすのです。
        その意味でサマリアの人々が強いて主にその地に滞在してくださるように、つまり自ら直接主と交わることを願って、主から直接御言葉を聞いたことは非常に重要な意味があったのです。だからこそ、彼等は信仰を自らのものとすることができた、その告白こそが、「もう私たちは、あなたが話したことによって信じているのではありません。自分で聞いて、この方がほんとうに世の救い主だと知っているのです。」という言葉になっているのです。
        これこそが彼等が受け取った、地上の何よりも価値を持つ、永遠の命なのです。
        信仰は自らのものとなって始めて、命となって力を持ち、隠すことができないほどに溢れて、命の川々となって流れ、多くの人々を命に満たし生かすものとなるのです。そしてさらに命はこのプロセスを繰り返して拡大し続け、だからこそ、時代を超えて、地域を超えて、世界中にイエスを救い主と信じる者達が生きているのです。
        この主イエスがあなたに与えている永遠の命には、本当に力を持って溢れた時、世界中を命に覆うほどの絶大な力があるのです。
        あなたはそれを本当に受け取っているでしょうか?
        あなたは信仰を自分のものとしていますか?誰かからの借り物ではないでしょうか?
        あなたは直接主と交わっていますか?直接主から御言葉を聞いていますか?
        あなたは永遠の命を自らのものとしていますか?
        今、主に祈り、主と直接交わる時を共に持ちましょう。


        愛する主よ。今あなたの声を聞かせてください。あなたがどれほど、私達を愛し、またご自身の愛溢るる思いを明かされようと願っておられるのかを。そしてあなたを信じる者の内に与えられているあなたの命が、いかに絶大な力を持ち、また私達の内から溢れ出て、死に満ちるこの世を命に満たそうと願っておられるのかを。これほど絶大な永遠の宝が私の内に閉じ込められている、畏れ多さを覚えます。この永遠の命はあなたのものです。どうか御心のままに溢れ出てくださいますように。


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        | 今日のかて | 12:45 | comments(0) | trackbacks(0) | - | ↑PAGE TOP
        今日のかて 創世記 26:12-25
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          イサクはそこから移って、ほかの井戸を掘った。その井戸については争いがなかったので、その名をレホボテと呼んだ。そして彼は言った。「今や、主は私たちに広い所を与えて、私たちがこの地でふえるようにしてくださった。」
          彼はそこからベエル・シェバに上った。
          主はその夜、彼に現われて仰せられた。「わたしはあなたの父アブラハムの神である。恐れてはならない。わたしがあなたとともにいる。わたしはあなたを祝福し、あなたの子孫を増し加えよう。わたしのしもべアブラハムのゆえに。」
          イサクはそこに祭壇を築き、主の御名によって祈った。彼はそこに天幕を張り、イサクのしもべらは、そこに井戸を掘った。
          旧約聖書 創世記 26:22-25
          (全文長いため略しました。創世記 26:12-25全体は聖書からご参照ください。)

          イサクは穴を掘り続けました。
          彼は、主が彼を祝福されるのを、周りの者に嫉まれて、自らの住む地を追われました。
          父から受け継いだ土地、そしてそこにあった井戸を塞がれ、出て行ってくれと言われたのです。
          迫害されても、人々から奪われても、彼は淡々と井戸を掘り続けました。
          何度人々から退けられても決して逆らわず、争わずにただ淡々と、幾度も埋められてしまっていた父の井戸を再び掘っては奪われ、埋められ、その地を追われ、それでも井戸を掘り続け、やがては新たに井戸を掘り、ただひたすらにそれを繰り返して掘り続けたのです。自らの住む場所を得るために。(12-21節)
          イスラエルの地においては水のないことは死活問題ですから、井戸を奪われることは私達が思うよりも深刻な問題なのに、彼は争い奪い取り返すことより、井戸を掘り続けました。
          まるで何か見えない使命があるかのように。
          しかし、その井戸を掘り続けたことは、意図を越えて気がつけば、新しい地を広げ得たということとなったのです。
          父から受け継いだ地を、さらに広げ得たということが、いかに主の目には大きなことであったのでしょうか。
          だからこそ、イサクは父から受け継いだ信仰と、その祝福を今やイサク自身のものとして、受け取ったのです。
          主はこの時直接イサクに現れ、語られたのです。そしてイサクはこの時初めて自らの手で祭壇を建て主に礼拝をささげました。(22-25節)
          彼はこのようにして、信仰を勝ち得、また主からの約束を勝ち得たのです。
          一見するとこれは消極的な戦いに見えるかも知れません。確かに聖書にあるイスラエルの歩みの中には、新しい地を信仰により戦争をし、戦い取る姿が随所に描かれいます。そこからするなら、これは戦いを避けたゆえに、結果広げ得た地に見えるでしょうか。
          いえいえ、このイサクの戦いは目に見える戦いではなく、まさに目に見えない霊的な(信仰の)戦いだったのです。
          なぜなら、井戸こそ、命の泉。イエスキリストはご自身をそのような者として私達に語られているのですから。

          《ヨハネの福音書 4:14》
          しかし、わたしが与える水を飲む者はだれでも、決して渇くことがありません。わたしが与える水は、その人のうちで泉となり、永遠のいのちへの水がわき出ます。

          その命の泉を掘り続けたイサクの姿は、まだ見ぬイエスキリストを信仰の目により、はるか未来に現れる救い主を仰ぎ見て、探し続ける姿ということができます。そして彼はそのことにより新しい地を得たのであり、神に直接お会いすることができたのです。その時神から語られた言葉は井戸を掘り続ける前の約束の言葉(創世記26:2-5)と変わりなく聞こえますが、彼には自らへの確かな約束として受け取れたでしょう。なぜならその信仰を自分のものとして確かに受け取ったからこそ、自ら祭壇を建て主に礼拝をささげる礼拝者となったのですから。
          やがてさらに、ここで得た約束が元となり、後にイスラエルの民は新しい地を実際に戦い取ることとなるのです。つまり、イサクはイスラエル全体の勝利をここで一人静かに勝ち取ったとさえ言えるのです。
          神の祝福と約束の中を歩む信仰者の歩みは、全く何もない平坦な道とは限りません。誰でも信仰における戦いはあるでしょう。
          そしてその戦い方は一通りではありません。
          主は何をあなたに勝ち得てほしいと願い、何をすることを望んでおられるのでしょうか。
          それはあなたが問題や壁に行き当たる時、あなた自身が神に聞くしかありません。
          しかし、一つだけ言えることは全てのことに神のご計画があり、あなたにとって必ず意味がある。主のみおもいが全てにあるということです。

          《詩篇 139:16,17》
          あなたの目は胎児の私を見られ、あなたの書物にすべてが、書きしるされました。私のために作られた日々が、しかも、その一日もないうちに。
          神よ。あなたの御思いを知るのはなんとむずかしいことでしょう。その総計は、なんと多いことでしょう。

          そこを歩むとき私達は見えない道程を、主に確かに導かれて、見えているかのように歩むことができるのです。主の導きの御手はどこへ向かって伸べられているでしょうか。共に祈りましょう。


          愛する主よ。私達の日々の歩みは確かに目には見えず、不確かに見えるかも知れません。ましてや目の前に壁や問題が立ちはだかるならそれは尚更です。しかし、私達が見るのはその目の前にある現実ではなく、主よ、あなたの御心です。あなたの溢れる私に向けられている御心をどうかお語りください。何を望まれ、何を与え、どこに導こうとされているのでしょうか。見えないからこそ不安に怯えるのではなく。どうかあなたを信じ、真っ直ぐにあなただけを見て、ただ一筋に歩むための信仰を私達にお与えください。ただあなが私を愛してくださるがゆえに、ただあなたを愛するがゆえに。
          | 今日のかて | 16:00 | comments(0) | trackbacks(0) | - | ↑PAGE TOP
          今日のかて マタイ 26:29
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            ただ、言っておきます。 わたしの父の御国で、あなたがたと新しく飲むその日までは、わたしはもはや、ぶどうの実で造った物を飲むことはありません。」
            新約聖書 マタイ 26:29

            これは最後の晩餐の席で、主イエスが語られた一言です。ご自身の血で立てられる新しい契約の杯として、ぶどうの杯を弟子達に分かたれた時のものです。そして、ここには主の深い思いが込められています。
            ぶどうの実で造った物をもう飲むことはないと言われたのは、旧約聖書にあるナジル人の誓願の規定に重なるものです。

            《民数記 6:2-4》
            「イスラエル人に告げて言え。男または女が主のものとして身を聖別するため特別な誓いをして、ナジル人の誓願を立てる場合、
            ぶどう酒や強い酒を断たなければならない。ぶどう酒の酢や強い酒の酢を飲んではならない。ぶどう汁をいっさい飲んではならない。ぶどうの実の生のものも干したものも食べてはならない。
            彼のナジル人としての聖別の期間には、ぶどうの木から生じるものはすべて、種も皮も食べてはならない。

            ナジル人の誓願とは、特別に自分を神のものとしてささげ、聖別する誓願です。ここで主はご自身をそのように父なる神にささげました。この後文字通り十字架の上に、ご自身を、唯一父なる神を満足させる、完全なるささげ物としてささげられました。
            ご自身を聖別し、同時にこの血で立てられる杯により私達を聖別するために。

            《ヨハネ 17:17-19》
            真理によって彼らを聖め別ってください。あなたのみことばは真理です。
            あなたがわたしを世に遣わされたように、わたしも彼らを世に遣わしました。
            わたしは、彼らのため、わたし自身を聖め別ちます。彼ら自身も真理によって聖め別たれるためです。

            主は私達をどれほどの思いでこの地上に残し(遣わし)、天に帰られたことでしょう。そして、ご自身と共に私達を聖なるものとすることがどれほどの悲願であったでしょう。

            《レビ記 19:2》
            イスラエル人の全会衆 に告げて言え。あなたがたの神、主であるわたしが聖であるから、あなたがたも聖なる者とならなければならない。

            主が「わたしの父の御国で、あなたがたと新しく飲むその日まで」と言われているのは、黙示録の最後に書かれている婚宴の時であり、この婚宴は花婿イエスキリストと花嫁である私達教会との結婚の時を指します。
            その時まで、私達をご自身にふさわしいように、ご自身が聖であるように、聖としようとされたのです。
            その日まで主はナジル人の誓願を続けられるというのです。
            私達花嫁を迎えるため、ふさわしい花嫁とするため、主はご自身のすべてをささげ尽くして私達に備えを与え、ご自身と同じ姿にまで変えてくださろうと私達を引き上げてくださろうというのです。

            《2コリント 3:16,17,18》
            しかし、人が主に向くなら、そのおおいは取り除かれるのです。
            主は御霊です。そして、主の御霊のあるところには自由があります。
            私たちはみな、顔のおおいを取りのけられて、鏡のように主の栄光を反映させながら、栄光から栄光へと、主と同じかたちに姿を変えられて行きます。これはまさに、御霊なる 主の働きによるのです。

            神の子イエスキリストと同じかたちにです。何と恐れ多いことでしょう。罪人でしかなかった私達を栄光から栄光へと鏡のように主の栄光を反映させながら、そのような姿に変えるというのです。主は私達をどれほど愛しておられるというのでしょう。
            そのための誓願を主は、花嫁として私達を迎えるその日まで続けられるというのです。どれほどの思いがそこに込められているのでしょうか。
            私達が聖餐を重ね、この杯を重ねる度に、主の聖なるものとして、栄光の似姿に変えられて行くことを心から望んで止みません。
            主のこの深い思いを、あなたはどれほど受け止めていますか?


            主よ。あなたには私がどのようなものとして映っているのでしょうか?この塵に過ぎない者をどれほど愛しているというのでしょうか?なぜそれほど私を愛してくださるのでしょうか?それをあなたに直接うかがえるその日まで、天でお会いできるその日まで、あなたの愛のままに、私をあなたにふさわしく変えてくださいますように。ただあなたの御前に私を置いてください。あなたの栄光を日々映すために。ただあなたを愛するために。
            | 今日のかて | 15:20 | comments(0) | trackbacks(0) | - | ↑PAGE TOP
            今日のかて ルカ 5:3-6
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              イエスは、そのうちの一つの、シモンの持ち舟にのり、陸から少し漕ぎ出すように頼まれた。そしてイエスはすわって、舟から群衆を教えられた。
              話が終わると、シモンに、「深みに漕ぎ出して、網をおろして魚をとりなさい。」と言われた。
              するとシモンが答えて言った。「先生。私たちは、夜通し働きましたが、何一つとれませんでした。でもおことばどおり、網をおろしてみましょう。」
              そして、そのとおりにすると、たくさんの魚がはいり、網は破れそうになった。
              新約聖書 ルカの福音書 5:3-6

              私達の力が尽きた時、人の思いが尽き果てた時、神の御業が現れます。
              それは人の力に一切よらず神のみによってなされた御業であり、神の絶大な力、深いみこころを、私達はそこで初めて知ることができるのです。
              主のあわれみは尽きることはありません。
              そして私達の唇は、神を賛美することを止められないでしょう。
              それこそが神の栄光であり、この栄光を受けるにふさわしい方は神のみなのです。
              神は私達が力を尽くさなければ何も出来ないような方ではありません。むしろ、誰の力にもよらず、ただご自身が全てを満たし、全てを動かし、全てを完成されるのです。
              この絶大なる神の存在の前に全ての被造物はひれ伏すのです。
              だからこそ、それを現すために私達の力が思いが残るうちにはご自身の全容を現されることがないのです。
              これは絶望ではありません。神にある真の希望なのです。
              しかしここで、その御業を見る前に、主は一つのことを求めています。
              まず主の御言葉に伏し、従うこと。
              確かにこの状況においてはぺテロはプロの漁師であり、そのような人が一晩中漁をして何も取れなかったのであるから、全く漁の素人であるイエス様の言葉は現実に反対している言葉に聞こえるでしょう。ここでもしぺテロが自分の主張だけを押し通し、神の御言葉を退けていたら彼は一生救い主であるイエス様に出会うことはなかったかも知れません。
              でも、彼は神の言葉に従った。
              「でもおことばどおり、網をおろしてみましょう。」
              あらゆる状況において、自らが現実の中で無力さを感じるほどに万策が尽き、失望に膝を抱え込もうとする時、私達は主の御言葉を聞くべきです。そして御言葉にひれ伏し、従うところから、歩みを始めるべきです。
              主はあなたのすぐそばに立たれ、あわれみを湛えて、恵みを注ごうと待っておられるからです。
              やさしく語りかける主の導きに全てをゆだねて生きることができる人は幸いです。
              言葉に尽くすことのできない、大いなる主の栄光をそこに見ることができるのですから。


              主よ。私はあなたがいるから、どのような時にも心強いのです。たとえ全てが尽きたように見える時でも、この時こそあなたの栄光が真に現される時だと告白できるのです。今こそ、あなたの本当のみこころの深さを知ることができると、あなたのみに希望をよせることができるのです。主よ。小さな私に絶大なるあなたを現してください。私が真にあなたを知り、またここに現された栄光に触れた全ての人々もあなたを知って、あなたへの賛美が溢れるために。
              | 今日のかて | 08:04 | comments(0) | trackbacks(0) | - | ↑PAGE TOP
              今日のかて イザヤ 46:10
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                わたしは、終わりの事を初めから告げ、まだなされていない事を昔から告げ、『わたしのはかりごとは成就し、わたしの望む事をすべて成し遂げる。』 と言う。
                旧約聖書 イザヤ 46:10

                新しい年を迎えました。
                しかし、私達を取り巻く情勢は、昨年に引き続き今年も厳しく、不安を抱かせるようなことが国内にもまた世界的にも山積みの状態です。答えが見えず、どこに希望を置いていいのかと思われている方もおられるでしょう。
                私達の生活はもう後戻りできない大きな変化の中、逃れようのない現実の中を生きているという閉塞感を、誰もが抱いて歩まなければならない時代に突入しています。
                そこで、私達は何を基準にこのような時代を歩むべきでしょうか。
                このように人間の力では到底立ち行かない問題の前でこそ、私達は聖書をもってその足元を照らし、歩むべき道を見出す必要があるのです。
                預言者イザヤが生きた時代も、厳しい現実に今まさに飛び込んでいこうとする時代でした。神の民として神に選ばれたイスラエルはしかし神から離れ、罪を重ね続けました。選民でさえそのように神から背を向けた時代、周辺諸国では尚更罪が全地に満ち、その積み重なる罪に神の裁きが下ります。さばきが神の家から始められる時が来た。イザヤはまずこれから起ころうとしている神の家への裁き、バビロンへの捕囚の預言を神から語られます。
                しかし、続いてイザヤはこの地が終焉を迎える、世の終わりまでの一連の預言を与えられて行くのです。そしてやがて神の計画の結論を目の当たりします。その時、この主の計画の結論がいかに壮大で恵み深く、人の考えは到底及ばず、遥かに素晴らしいものであるかを知り、真の希望を預言するのです。
                人々の犯した罪が満ち溢れ、地がのろわれ、神の裁きの時が満ち、まさにそれが目の前に起ころうとしている。それは今の時代も同じです。聖書における終末の預言、その条件はまさに整えられています。神の裁きへの時は満ちつつあるのです。
                だからこそ、聖書に語られている神の計画の結論をしっかりと見て、真の希望を受け取るべきです。
                神はその計画の結論にこのように語ります。

                《新約聖書 黙示録 21:1-4》
                また私は、新しい天と新しい地とを見た。以前の天と、以前の地は過ぎ去り、もはや海もない。
                私はまた、聖なる都、新しいエルサレムが、夫のために飾られた花嫁のように整えられて、神のみもとを出て、天から下って来るのを見た。
                そのとき私は、御座から出る大きな声がこう言うのを聞いた。「見よ。神の幕屋が人とともにある。神は彼らとともに住み、彼らはその民となる。また、神ご自身が彼らとともにおられて、
                彼らの目の涙をすっかりぬぐい取ってくださる。もはや死もなく、悲しみ、叫び、苦しみもない。なぜなら、以前のものが、もはや過ぎ去ったからである。」

                主と私達が共に住まう。キリストと、キリストを愛する花嫁である教会の結婚。死も悲しみも叫びも痛みももはやない。キリストとの永遠の愛の関係に入り、神と一つとされる。神の喜びが私達の喜びとなり満ち溢れる。天国の完成。永遠の祝福と永遠の主の栄光。
                これは裁きが夢物語ではないのと同様に、夢物語ではありません。この大きくうねる時代の波動こそ、その証拠。
                そうです。むしろ、この完成に向けての時代の収束の中に、神の裁きが先立って存在しているのです。全ての悪しき者は裁かれ、闇はまことの光の前に 消え去る。古きが消え去り全てが新しくなる。この工程がなく、天国の完成はありえません。
                そこに私達は裁かれる者ではなく、ただキリストが十字架に私達の代価を払われた故に、罪なき者として立たせられ、さらにはキリストの花嫁として主 に愛溢れる眼差しで見つめられ、神の永遠の懐ろの内に引き寄せられるのです。その愛にある永遠の喜びこそ、私達の永遠の望み。言葉に尽くすことが できない特権に私達は預かっているのです。
                だからこそ、この終焉の時期に私達は神に取り分けられ、この永遠の計画の完成になくてはならない、主の働きのために生きる者として、歩みを進めるべきでしょう。
                永遠の結論は今日の御言葉の通り、言葉に尽くせない幸いの内にすでに語り尽くされ、そこに至る道のりはすでに神の御前に完成しているのです。私達に何も心配はいりません。ただこの主の計画、主の御心に身をゆだね、主と共に歩むのみなのです。そうするのであれば、後は自動的に、すでに完成した計画に向け、進み続け、一つ一つ事は全て成就していくのです。

                あなたはこの御言葉にある永遠の希望を信じますか?


                主よ。まさに時代の波動を感じていますが、これこそ永遠の望みへの確かな鼓動です。今この時代に絶望ではなく、あなたの永遠の計画、真の希望を、私達にこの内に住まう主の霊の内に見させてください。どうかあなたの御心にふさわしい者としてこの終末の時代を歩ませて下さい。主イエスの御名で祈ります。
                アーメン。

                | 今日のかて | 11:26 | comments(0) | trackbacks(0) | - | ↑PAGE TOP
                今日のかて ローマ 8:31
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                  では、これらのことからどう言えるでしょう。神が私たちの味方であるなら、だれが私たちに敵対できるでしょう。 ローマ 8:31

                  あなたに敵対する現実は何ですか?
                  現実の重さに押し潰され負けてしまいそうに、心が折れてしまいそうになる時もあるでしょう。
                  目の前に立ちはだかる問題の数々、人間関係の難しさ、心の疲れ、痛み、自分との葛藤、罪との戦い、将来を考える時この不透明な時代に不安を抱く人もいるでしょう。
                  悩みを持たない人間はなく、その悩みは千差万別。しかしこの自分の戦いを誰も代わってはくれません。
                  しかし、天地万物を治められる主権者、王であられる方、全ての名の上に立たれる方、この世にある全ての者に勝る大いなる方、神があなたに味方していることを忘れないでください。
                  この方は十字架の死とよみがえりにより、全てに勝利した方なのです。この勝利はすでに完成しているのです。
                  完全なる勝利者である方を信じるあなたに敵対し得る現実は存在しないのです。
                  だから、もうあなたは敗北の幻にこれ以上偽られる必要はないし、もう何かから敗北しているかのように逃げる必要もないのです。
                  勝利者として、主と共に全てのことに勝利を宣言し、全ての現実に向き合えばよいのです。主が味方する者として、あなたが勝利者としての事実に立って歩むこと、その一歩を踏み出すならば、それがすべて現実のものであることを体験し、知ることとなるでしょう。
                  そうです。あなたは主にあって、あらゆることに主の勝利を顕す、圧倒的な勝利者なのです。

                  どうか、主よ。あなたの完成された御業の上に立たせ、あなたの勝ち取られた勝利に生きる者としてください。自分の力に頼るのではなく、あなたの成された十字架の御業の故に、圧倒的な勝利者としてください。あなたの勝利により、全てのことに勝利する者としてください。あなたの十字架の勝利を、私の上に顕される勝利により、この世に知らしめる者としてください。全ての者達、全被造物がこの勝利の前に、主を恐れ、ただ主のみがあがめられますように。主の御名のみが讃えられますように。主イエスの御名によりて。アーメン†

                  | 今日のかて | 20:26 | comments(0) | trackbacks(0) | - | ↑PAGE TOP
                  今日のかて マタイ 24:35
                  0
                    この天地は滅び去ります。しかし、わたしのことばは決して滅びることがありません。
                    新約聖書 マタイ 24:35

                    今のような時代ですから、この天地がやがて滅びるということを、実感として今感じている人も多いのではないでしょうか。
                    そしてそのときは、私達の持っているものはもちろん何ものも役に立ちません。私達がこれまで頼りにして来たものは何の意味もなくなるのが現実です。
                    しかし一旦これまで信頼し盤石だと思ってきたものが崩れ去るのを実際に目撃し、またその上に立てられてきた生活が脆くも崩れ去るのを見た時、私達の生活が砂の上に建てられた城のように、いかに虚しく崩れ去るものの上に建てられていたのかを感じたでしょう。
                    これまで日本が誇りとし、変わることがないと思ってきた、日本人の英智、それに基づく政治経済システム、その繁栄の日々が、このようにただ一日に崩れるものであったと、誰が予想することができたでしょう。あの平和で豊かな国だと思われていた私達の生活はあの一日を境に過去のものとなり、盤石だと思われていたこの国のシステム自体が、国の復興を阻むという悲惨な構図が生まれています。人の知恵や力は今なお続く災害に、成す術なく無力です。
                    でも、だからこそ聖書が力強く語っていることがわかります。
                    そうです。神の御言葉は決して変わることがありません。それは天地が滅びようともです。
                    むしろこの言葉に反抗する者こそ滅びに至るでしょう。それほどの絶対性を神の御言葉は持っているからです。
                    神は言葉によりこの天地万物を造られました。
                    ですから、全てのものはこの御言葉から成り、この御言葉により保たれています。
                    つまり、全てのものを治める法則とはこの御言葉に外ならないのです。
                    一度神が語り出された御言葉は虚しく返ることなく、必ず全て成就します。
                    でなければ、この御言葉により全てのものが保たれている以上、その御言葉が一言でも成就しないならば、全てのものが崩壊し、消滅するからです。
                    御言葉に従い御言葉の内に生きる者は、今日の御言葉が真実であることを知るでしょう。
                    そしてその人生の経験の中に、私達の人知や力をはるかに超える問題に遭遇したとしても、御言葉の約束のままに、私達はあらゆる逆境にも救いを得、むしろ神の栄光を現すものとして、圧倒的な勝利者として、全てのことを超えて生きる者となることを体験するのです。
                    あなたはこの御言葉を疑い、あるいは時に否定し、御言葉に反抗する者となって、神と対抗し滅び行く者となるでしょうか。
                    それとも、この御言葉に信頼を置き、御言葉の権威に伏して、御言葉に従い、御言葉の内に生き、御言葉を成就する者として生きるでしょうか。

                    愛する主よ。私達は目に見えざるともあなたを知り、愛しています。それは目に見えるものがいかに崩れ去ろうともです。なぜなら、あなたは永遠に変わりなく、永遠に「私は在る」お方であるからです。あなたに根拠を置くとき、どんなに揺らぐ天地の中にも、揺らぐことのない希望を持てることに感謝します。あなたは愛をもって日々私達に語りかけ、その御言葉は永遠に変わることがありません。御言葉が私を導き、私を守り、私を生かします。そしてあなたの御言葉は全地を覆い、あなたのみこころが日々成就するのです。どうぞ、私達をこの変わることのない御言葉の内にとどまらせ、御言葉の内に生きる者としてくださいますように。愛する主イエスの
                    御名で祈ります。アーメン


                    『一発逆転』人生塾
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                    | 今日のかて | 17:33 | comments(0) | trackbacks(0) | - | ↑PAGE TOP
                    今日のかて 詩篇 119:97
                    0
                      どんなにか私は、あなたのみおしえを愛していることでしょう。これが一日中、私の思いとなっています。
                      旧約聖書 詩篇 119:97

                      この「みおしえ」は神からのみおしえであり、聖書の御言葉として見るのであれば、この箇所の意味はわかりやすいのではないでしょうか。
                      聖書の御言葉は(聖)霊がその本質的意味を全て知るため、最初に霊が受け入れます。
                      やがてその霊が私達に真理を解き明かすために、心にその意味を理解します。
                      納得することを「腹に落ちる」と言いますが、そのように最初はその御言葉の意味が心にわからなくとも、繰り返し味わう内にやがてある日、理解でき、心の深くに納得行き、腹に落ちるような時が来ます。
                      そしてその御言葉を基に日々の生活を生きるのであれば、その御言葉を自分の人生に体験することとなります。
                      神の言葉は決して変わることがありませんから、解き明かされた真理はその約束の通り自分の人生に働くことを知るでしょう。
                      主の御言葉は生きていて、私達に命を与えるものですから、このように内側から外に向けて、主の命が溢れるように、御言葉もその内から外に、私達の人生全般に満ち溢れるようになります。
                      そうして私達が御言葉を知り、味わい、御言葉にとどまり、御言葉の内に生きるのであれば、私達は神ご自身を知り、また私達に与えられている神の国がいかに栄光に富んだものであるかを知るでしょう。また私達にすでに与えられている希望がいかに絶大なものであるか、どれほど壮大なものを神から私達はすでに受け取っているのかを知ることになるでしょう。
                      神が私達をいかに愛しているかを御言葉に知る内に、私達は自然に御言葉を深く愛し、これを思う一日を過ごさざるを得なくなるでしょう。全ての基準を御言葉に置き、御言葉を自分の思いとする時、私達はいかなることにも揺るがされることのない、祝福された日々を歩むようになるでしょう。
                      あなたも聖書を読みたくはありませんか?

                      愛する主よ。御言葉は私達を生かす命の糧、揺るがぬ土台です。どうかこの御言葉を味わい、御言葉に生き、御言葉をあなたからの言葉として愛する者としてください。これを日々の中心に置き、あなたを知り愛する生活の始まりとしてください。この御言葉に生きることにより、私達の内にキリストを形作り、キリストの身丈に至るまで、成熟させ栄光に至らせてください。どうかこの全てのことがあなたのみこころを成就し、あなたを渇きを潤すものとなりますように。主イエスの御名で祈ります。アーメン


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